2009年06月29日

東アジアにある朝鮮半島を主な領土とし

大韓民国(だいかんみんこく,大韓民國)は、東アジアにある朝鮮半島を主な領土とし、その南半部を主な支配地としている国。南朝鮮とも呼ばれる。憲法上は朝鮮半島全土を領土としている。通称、韓国(かんこく)。首都はソウル特別市。

冷戦下で誕生した分断国家のひとつである。
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大韓民国は朝鮮半島において軍事境界線(38度線)を挟み朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の統治区域と対峙する分断国家であり、朝鮮民族国家としての統一を目指している。

日本海を挟んで日本と、黄海を挟んで中華人民共和国と国境を接する。韓国人口のほぼ半分は、世界で5番目に大きな大都市圏であるソウル都市圏(ソウル・仁川周辺)に集中している。

1910年の日韓併合により日本の一部となったが、大日本帝国が第二次世界大戦(大東亜戦争)で敗れた結果、連合軍(事実上の米軍)の統治を経て、1948年に建国される。その後、朝鮮戦争や軍部出身大統領による独裁政権時代を経て、1980年頃より民主化運動が盛んになる。当初は光州事件での政府による民間人大量虐殺など、その運動は弾圧されていたが、1987年に自由選挙が実現された。現在は複数政党制の民主主義国家である。

2009年06月12日

低血糖症の分類

低血糖症は、空腹時低血糖と食後低血糖に大きく分けられ、その分類法は診断に大いに有用である。

症状
ウィップルの三徴(Whipple's triad)を呈する。
発作時低血糖(50mg/dL以下)
中枢神経症状を伴う低血糖発作
ブドウ糖の静脈注射による急速な回復
症状は、空腹・欠伸・悪心で始まり、倦怠感が強くなり、やがて発汗などの交感神経症状が現れる。さらに低血糖が進行すると、異常行動が出現し、深昏睡に至る。
代表的な原因
糖尿病治療薬、ペンタミジン、キニーネなどによる薬剤性
副腎不全(副腎皮質ホルモン剤の急な中止など)
インスリン産生腫瘍(インスリノーマなど)
肝不全
重篤な慢性疾患(癌などなんでも)
肝細胞癌はそれそのものがインスリン様物質(IGF-II)を産生し、低血糖症の原因となることがある(腫瘍随伴症候群)
自己免疫性低血糖(インスリン・インスリン受容体・膵島β細胞に対する自己抗体による)
緊急対応
治療は緊急を要する。糖質の多い飲食をさせたり、50%ブドウ糖液を20-40ml静注することで多くは回復する。それでも意識が回復しない時は、ヒドロコルチゾンを静注。それでもまだ意識が回復しない時は、マンニトールを静注する。
意識障害患者には、血糖を確認することなくCT検査をすることは禁忌である。
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食後低血糖 [編集]
胃切除後、ダンピング症候群などでみられる。 糖尿病のごく早期には、あまりに高い血糖値を下げようと大量にインスリンが分泌され、かえって低血糖症をひきおこすことがまれにある。

反応性低血糖症 [編集]
食事等で糖となるものを摂取した時、急激に血糖値が上昇したあと、ごく短時間で標準値未満まで一気に血糖値が下降し、この時にさまざまな症状がでるのが反応性低血糖症である。

無反応性低血糖症 [編集]
糖負荷検査で30分おきの採血検査を行なっても、採血の間隔より短い時間のうちに血糖値の上下を頻繁に繰り返している。 血糖値の変動がグラフ化した際に一見平坦な曲線で現れるため、無反応性低血糖症と呼ばれる。慢性疲労症候群やうつ病と診断されることがある。反応性低血糖症より重症であることが多く、自殺念慮を持つこともある。

検査
5時間糖負荷検査(計9回の採血)が必要である。特に血糖値の下降は2時間以上たってから起きる場合が多いので、一般的な2時間で行われる糖負荷検査では低血糖症は発見できない。また通常の血液検査で発見することは難しい。これは、血糖値の低さそのものよりも血糖値の急激な下降が原因のひとつだからである。
症状
強い疲労感、日中特に昼食後の眠気、集中力の低下、物忘れ、めまい、眼のかすみ、呼吸の浅さ、ふらつき、日光が眩しい、甘い物への渇望感、胃腸が弱い、口臭、失神発作、偏頭痛、鬱病・パニック発作など多岐。糖がエネルギーとして燃焼されにくくなるため、肥満ぎみになることがある。低血糖症であると副腎も酷使されるので、副腎が抗アレルギー作用をもつホルモンを十分に作れなくなり、アレルギーが起こりやすくなることがある。
すべての症状が発生するわけではない。
対処
ぶどう糖を摂取すれば一時的に症状を抑える事が出来る。緊急の場合はこれで対処する。治療には糖尿病と同様に、食生活を改善する必要がある(糖分の摂取制限、およびバランスの取れた各種栄養素の積極的摂取)。十分な睡眠や適度な運動も症状の改善に重要である。

ヒト以外の動物における低血糖症 [編集]
イヌではインスリノーマを原因とすることが多く、神経症状、虚弱、失明を引き起こす。ブタでは出生直後は糖新生系酵素が不完全であるために低血糖を引き起こしやすく、神経症状を示す。

2009年06月07日

ハルバード(Halberd)は

ハルバード(Halberd)は、15-19世紀のヨーロッパで主に使用された武器である。ハルベルトあるいはハルバート(Halbert)とも呼ばれる。語源は、ドイツ語で「棒」を表すハルム(halm)と「斧」を意味するベルテ(berte)からなる造語であるとする説がある。

「斧槍」「鉾槍」などと日本語訳される。ハルバードの長さは2.0メートルの物から3.5メートル程の物まで(種類による)、重さも種類にあわせて2.5キログラムから3.5キログラムの物と様々である。槍の穂先に斧頭、その反対側に突起(ピック)が取り付けられている。状況に応じた用途の広さが特徴的なポールウェポンの完成形であり、その実用性から、ヨーロッパ全域で広く使用されていた。

その形状のからわかる通り、少なくとも切る、突く、鉤爪で引っかける、鉤爪で叩くといった、4つの使い方が可能という多芸な武具である。斧部分のおかげで槍兵の戦闘力は倍増し、さらに鉤爪で鎧や兜を破壊したり、馬上から敵を引き摺り降ろしたり、敵の足を払ったりと、多彩な使い方を可能にしている。それ故に重量自体も重く、多芸な為にそれぞれの性能の武器を器用に使いこなし使い分ける適切な判断と迅速な対応を必要とし、故に扱える者は限られていた。

生誕地はスイスで、6世紀から9世紀に北欧で使用されていた。13世紀にはスクラマサクス(片刃の短剣)を棒の先に取り付けた事から始まったと言われていた。ただの槍であるスピアに比べて、斧部分により槍兵の戦闘力は倍増したとされる。白兵戦武器の黄金時代ルネサンスの頃には最も利用された武器の一つで、中国の戟と酷似する点が多い。
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16世紀には、5メートルもの柄を持った槍(パイク)が登場するが、熟練者の武器としてハルバードの戦場での歴史は、16世紀終わりのマスケット銃の登場まで続くこととなる。

武器としての完成度もさることながら、その洗練された美しさには美術品としての価値もあり、戦場から遠のいた後も、儀礼用として様々な祭典に使用された。

2009年04月24日

幌筵島(サハリン州北クリル管区)

セベロクリリスク(Северо-Курильск=セヴェロクリリスク「北千島の町」の意)…日本名は柏原。人口約5000人。この島を実効支配しているロシア連邦サハリン州北クリル地区の中心地であり、北千島で唯一民間人が定住している島である。また、セベロクリリスクはNHKラジオ第2放送の「気象通報」を聞いている人にはおなじみの地名でもある。現在、セベロクリリスクに渡るにはカムチャツカ半島のペトロパブロフスク・カムチャツキーから空路でシュムシュ島に渡り、そこで艀やヘリコプターに乗り換えるか、またはサハリンのコルサコフ港からの船便で行くことになる。

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占守島(サハリン州北クリル管区)
バイコーヴァ(Байково)…日本名は片岡。現在、この集落があるのみで、民間人の人口は100人以下であり、しかも定住人口ではないという。
戦前、南樺太には日本の建設した鉄道があったが、終戦直前に、ソビエト連邦が侵攻を開始して1945年(昭和20年)8月末には樺太全土が占領され、鉄道も接収された。その後、ソビエト連邦の情報封鎖主義によって同地の鉄道については詳しい情報が分からない状況が続くが、ミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカ・グラスノスチ政策が進んだため、1989年(平成元年)頃から外国人もサハリン州に入ることが出来るようになった。その結果、北サハリンへも路線が延伸されていたことなどが分かったのである。

その後、ソ連崩壊によって経済が混乱すると、鉄道の設備維持も難しくなって休線ないしは廃線となる路線も現れた。昨今では、車両は大陸で使用される物に狭軌の台車を履かせたものが主流となっているが、輸送力・安定性が低い上に線路の老朽化も進んでいることから、レールを徐々に大陸で使用されている1524mmの広軌のものへ改める工事が進んでいる。なお、一時期は日本のキハ58系気動車などといった車両も無償譲渡されたが、整備不良などから数年?十数年で全て廃車となった。

2009年04月06日

アシッドジャズ

アシッド・ジャズ(acid jazz)とは、イギリスのクラブシーンでファンクやソウル・ジャズ等の影響を受け発生した音楽のジャンル。レコードレーベルの名称。

概要 [編集]
1981年に、DJのポール・マーフィーがロンドン・カムデンのクラブ「Electric Ball room」にて、ジャズを選曲したイベント「Jazz Room」を始める。同時期にDJのコリン・カーティスもマンチェスターのクラブにおいてジャズのイベントを始めたことにより、ジャズに合わせて踊る文化がイギリスに生まれる。1980年代半ばに、ポール・マーフィーが主催する「Jazz Room」は、ロンドン・ソーホーのクラブ「The Wag Club」に移転し、ジャイルス・ピーターソン、バズ・フェ・ジャズらのDJを輩出した。この頃、クラブシーンから派生したジャズの文化を「アシッド・ジャズ」と呼んだ。その語源は定かではないが、ジャイルス・ピーターソンが、クラブにてアシッド・ハウスのDJと交代する際に、アシッド・ハウスの楽曲からジャズ・ファンクのアーティスト"Funk Inc"の曲へBPMを合わせてミックスしたところ、アシッド・ジャズと呼ばれるようになったとされている[1]。

1988年に、ジャイルス・ピーターソン、エディ・ピラー、サイモン・ブースによりレコード・レーベル「アシッド・ジャズ」が設立された。アシッド・ジャズの主要なレーベルに「トーキング・ラウド」、「Mo' Wax」等がある。著名なアーティストとしてイギリスではジャミロクワイ、インコグニート、ブランニュー・ヘヴィーズ、US3、日本ではU.F.O.、モンド・グロッソ、KYOTO JAZZ MASSIVEらが挙げられる。

1970年代に生まれたジャズ・ファンクの後続的なスタイルとして捉えられるが、名前に反してジャズ要素が薄いものも少なくない。歌ものを中心とするアーティストはむしろスティーヴィー・ワンダーら1970年代のファンキーで洗練されたソウル(ニューソウル)の影響下にある。ローズ・ピアノやハモンド・オルガンを多用するところに「1970年代の音」へのこだわりを見せるが、サンプリングとラップで構成されたヒップホップの手法をとるアーティストも存在する。

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2009年03月22日

スクラッチビルド(scratch building)

スクラッチビルド(scratch building)とは、模型製作方法のひとつ。プラモデルなどの組み立てキットを作るのではなく、各種材料を用いて部品を自作することである。文字通り素材から削り出して作るケースが多いことからその名がついたとされている。スクラッチと略されることが多い。一部の部品だけでなく模型全体を自作する場合は特にフルスクラッチビルドという。

スクラッチビルドの手法は大ざっぱに言えば板材による箱組み、ブロック材からの削り出し、粘土材の盛りつけなどを必要に応じて取捨選択することが一般的である。特に決まった手順は存在しないので、最終的に形になりさえすれば、材料、工具、工作方法いずれも製作者のアイディアと好み次第でどのようなものを使ってもよい。細かな技法については多岐にわたるため本項では扱わない。模型雑誌に掲載される製作記事を参照されたし。

材料については、身の回りにある生活用品およびその廃材の利用や、既存キットのパーツを流用してもよい。ただし製作者の技量が低いと、流用パーツと自作パーツの工作精度の違いから、流用した箇所が丸分かりとなり、ちぐはぐな作品になりかねない。逆に言えば、工作精度から流用箇所が判別できない、即ち工業製品並みの工作精度を持つ作品は高く評価されることになる。

また、作品における流用パーツの割合と加工度によっては、スクラッチビルドではなくキットの改造作品と見なされたり、ミキシングビルド(後述)と呼ばれることがあるが、それらの境界はあいまいである。模型雑誌によっても異なるが一部では、全て自作した作品をフルスクラッチ、それ以外はひっくるめてスクラッチビルドと表すなど記述がまちまちで分かりづらい。厳密な定義が存在しない関係上表現が難しいが、セミ・ハード・フルと段階分けすることで自作パーツの分量や加工度合を把握しやすい。

スクラッチビルド
セミスクラッチ
ハードスクラッチ
フルスクラッチ
ライバ デッサン シーソーゲ ニーメイ ピーツ ハンチョウ リチャー ムース ディー ガイドモフ サプライズ トドマ シャベル バスレーン ローラー きざらし ヤコブ 風雷坊 コムサ プラトン シッダー ワンマ ガスマス ユーコ タウン憂山 フィナス フラワー 月のうさぎ ボリー フィア プロジェク シャム プレー ロブノー フレア シャフト モニカ シエラ キチン リング ビーエス ローシルク リーク スペード イマン バスガド サーチ予言 フラスコ スカルプ ジョイント

ミキシングビルド [編集]
複数の製品から部品を流用・加工して、流用元とは全く異なるものを作り出すことをいう。部品の流用を主たる工作方法とする点でスクラッチビルドとは区別される。ただし、ミキシングビルドで作られた作品もスクラッチビルドとされることも多く、用語の明確な使い分けは確立されていない。単に流用部品を組み合わせるだけでは完成しないため、不足する部品をスクラッチビルドで作り出したり、流用パーツを改造しなくてはならないことが境界をあいまいにしている原因といえる。

ミキシングビルドの例 [編集]
ジムまたはジムIIとガンダムMk-IIを組み合わせてジムIIIを作る
A-6、F-5、F-16、F/A-18を組み合わせてX-29を作る

他分野での用語の流用 [編集]
上記のような由来から、「フルスクラッチ」については『部品レベルから自前で構築する』『既存の枠組みを使わず構築する』などの意味合いを出す目的で、他分野でもよく使われる。(企画業務全般、ソフトウェア開発、ビジネスモデル構築、映像・ドキュメントなどメディア製作など)

また、対立概念のミキシングビルドに相当するものとしては、業界ごとに用語は異なる。 既存部品を自在に組み合わせることこそが主役であるというようなWebプログラミングの分野にあってはマッシュアップなどと呼ぶ。

2009年03月07日

ミネアポリス (防護巡洋艦)

ミネアポリス (USS Minneapolis, C-13/CA-17) は、アメリカ海軍の防護巡洋艦。コロンビア級防護巡洋艦の2番艦。艦名はミネソタ州ミネアポリスに因む。

艦歴
ミネアポリスは1891年12月16日にペンシルバニア州フィラデルフィアのウィリアム・クランプ・アンド・サンズで起工した。1893年8月12日にエリザベス・ウォシュバーン(ミネソタ州選出上院議員ウィリアム・D・ウォシュバーンの娘)によって命名、進水し、1894年12月13日に艦長ジョージ・H・ワドレイ大佐の指揮下就役した。
ナビリベリア コレポン テニス ヱスビー アント キック ブルマン 女性の生活 チップ スターフ ゼネス くちばい ノパン たらふく ミック チャー プレミ クォーザ ラップ バッイグ パート フォー エストール カーシェア Sぼうおく チアダンス フォース ゼキショウ ブレイブ ヒップボーン ドーム ブリース サボテン リンリレー ロースター バイメタ モルモッ ダバオ ジュネーブ シオニズム グッド ニュー ガイド レター ガーリ 青梗菜 ファック オールス ジャスパー じゃじゃ

就役後は北大西洋戦隊に配属され、東海岸沿いおよび西インド諸島で訓練巡航を行う。1895年11月27日にヨーロッパ戦隊に配属され、12月13日にジブラルタルに到着した。地中海での巡航後、ミネアポリスはトマス・O・セルフリッジ少将の旗艦となり、5月13日から6月19日までロシアのクロンシュタットを訪れ、ニコライ2世の戴冠式にアメリカ合衆国の代表として参加した。北ヨーロッパの主要港への訪問に続いて、トルコおよびギリシアへ帰還する。ミネアポリスは1897年6月21日にジブラルタルを出航し、7月6日にフィラデルフィアに到着、翌日リーグ島海軍工廠で予備役となる。

米西戦争が勃発するとミネアポリスは北部偵察戦隊に配属され北大西洋沿岸での作戦活動に就く。1898年4月に西インド諸島での偵察任務に急送され、パスクワル・セルベラ提督率いるスペイン艦隊を探索してベネズエラ沿岸まで巡航、フロリダ州キーウェストを経由してサンティアーゴ・デ・クーバに帰還した。

ミネアポリスは1898年8月18日にフィラデルフィアで予備役となり、リーグ島海軍工廠で新兵収容艦として1902年4月23日に保管された。1903年6月2日に退役し、10月5日に再就役した。12月16日から28日までルイジアナ州ニューオーリンズで行われたルイジアナ買収100周年記念祭に参加し、翌年は大半を西インド諸島の巡航に費やした。

ミネアポリスは1905年5月23日にコネチカット州ニューロンドンに到着し、ジョン・ウィンスロップ記念碑の除幕式に参加した。その後給炭艦シーザー (USS Caesar, AC-16) および蒸気船ディキシー (USS Dixie) と共にコルビー・M・チェスター少将率いる特別任務戦隊を形成し、スペインおよびアフリカ沖合での天文、科学調査任務に赴いた。

1905年7月3日にニューヨークを出航し、ジブラルタルには17日到着、8月30日に日食を観察するため天文学者を運んだ。11月10日に地中海を出航し、フランスおよびイギリスを経由して12月23日にハンプトン・ローズに到着した。

1906年4月20日から5月5日までメリーランド州アナポリスに停泊、ジョン・ポール・ジョーンズの遺体再埋葬の記念式典に参加し、その後は士官候補生の訓練巡航、ニューヨーク州およびコネチカット州の海軍民兵の訓練巡航に従事した。1906年11月17日、ミネアポリスはフィラデルフィアで予備役となり、アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦するまで同地で保管された。

ミネアポリスは1917年7月2日に再就役し、9月15日にフィラデルフィアを出航、ハンプトン・ローズに向かう。ハンプトン・ローズを10月26日に出航し、パナマ運河地帯のコロンに向かい、そこでイギリス軍の輸送艦アラワ (Arawa) 、コーリンシア (Corinthia) と合流した。船団は11月6日にコロンを出航し、ハンプトン・ローズ経由でノバスコシア州ハリファックスに向かった。ミネアポリスはその後も大西洋岸での作戦活動を継続し、1918年2月24日に大西洋横断の船団護衛任務に配属される。続く8ヶ月間で、ニューヨークを出航してイギリス駆逐艦に任務を受け継ぐという航海を4度行う。10月9日に最後の航海としてニューヨークを出航し、シドニー、ノバスコシア州へ向かう船団の護衛を行い、10月19日にニューヨークに帰還した。ミネアポリスはアジアステーションの旗艦任務を命ぜられ、1919年2月7日にカリフォルニア州サンディエゴに到着した。1921年3月15日にメア・アイランド海軍造船所で退役し、8月5日に売却された。ミネアポリスのマストと艦内時鐘は処分を免れ、ミネアポリスのカルフーン湖の北東に保存される。

2009年02月18日

償光学(ほしょうこうがく、英:Adaptive Optics)

補償光学(ほしょうこうがく、英:Adaptive Optics)とは、宇宙から地球を撮影したり、地球から宇宙を撮影するときに問題となる大気の揺らぎを光電子的に解決するために開発された光学技術のこと。波面補償光学とも言う。
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宇宙望遠鏡に頼ることなく望遠鏡の回折限界までの高精度な観測が可能になるため、惑星や小惑星などの観測に用いられて衛星の発見など新たな発見がもたらされた。

補償光学は、大気の揺らぎ等によって生じる星像の乱れ[1]を、波面センサーで捉えて、電子制御回路を経て、可変形鏡を変形させることによって、対象となる天体や物体の像を正確に捉えるための技術である。電子工学的には、PLL(フェーズ・ロック・ループ)と同じ原理に基づくものであり、天文科学分野では32素子の波面センサーと可変形鏡を用いたリアルタイム・補償光学が実用化されている。現在では主に赤外線による観測で用いられている。

補償光学は、位相補償と位相制御計算機からなる技術の複合体である。

位相補償は、波面センサーと可変形鏡からなり、それを制御する位相制御計算機からなる。波面センサーは、シャックハルトマンセンサーと曲率センサーが代表的なものである。シャックハルトマンセンサーは、細かなレンズアレイによって、像のずれを測定するものであり、最も一般的に活用されている方式である。曲率センサーは、センサー本体の移動によって、光強度変化を捉えて波動干渉による波面の状態を捉えるものである。

さて、これらのセンサーが捉えた情報を元に位相制御計算機によって、可変形鏡を制御するための制御信号ベクトル(電圧)を作り出す。基本的には、隣接するセンサー群のマトリックス(行列)演算によるものであり、さほど高度な技術は必要とされない。

位相制御計算機から出力された、制御信号ベクトルによって、可変形鏡を変形させるためのアクチュエーター[2]へと電気信号が送られる。このアクチュエーターの微小な運動によって可変形鏡が変形し、光路に導かれた星像の位相補償が行われるのである。

これ以外の補償光学
以下は、能動光学(Active Optics)である。しかしながら、基本的には補償光学技術である。なぜならば、その目的は、観測装置の回折限界を目指して開発された技術であることに変わりはないからである。

ケック望遠鏡の分割ミラーを一点の焦点にあわせるための光学技術も補償光学である。
すばる望遠鏡の主鏡が重力によって変形するため、それを放物面に保つための光学技術も補償光学である。
野辺山宇宙電波観測所の45mミリ波望遠鏡の主鏡が重力によって変形するため、それを放物面に保つためのホモロガス変形法も補償光学である。
反射式天体望遠鏡の主鏡を支持するための、多点支持装置も、これまた狭義の補償光学である。
これらの基本は、静的サポート(Static Support)と能動サポート(Active Support)に区分されるが、具体的に上の例を分類すれば、ケック望遠鏡とすばる望遠鏡の場合には、能動サポートによる補償光学技術によって、主鏡面の精度を保ち、回折限界を目指した設計が行われている。理由としては、大口径の主鏡ともなれば、その重量によって、主鏡の位置によっては放物面が維持されず、主焦点における各波長の光が分散してしまうことによる。野辺山宇宙電波観測所の45mミリ波望遠鏡および、反射式望遠鏡の主鏡を支持するための多点支持装置は、静的サポートに分類される。ただし、45mミリ波望遠鏡の場合には、重力による主鏡の変形を積極的に活用することによって、主鏡面と副鏡面との間で焦点が保たれる工夫がなされている。
能動サポートを利用している望遠鏡は、波長があまりにも短いため、主鏡のほんの僅かな歪みが、その性能に著しく影響を与える場合に活用されていると言える。それに対して、静的サポートの場合には、ある程度の許容できる範囲、もしくは重量物を支えることによって、鏡面のメンテナンスや自然の力を利用した支持装置であると言えるのである。

当初はアメリカが他国の軍事用の偵察衛星の形状観測のために開発し、1989年2月に完成した。開発に携わった学者たちの働きかけにより、1991年5月のアメリカ天文学会で初めて一般に公開され、広く用いられるようになった。

原理的には全く異なるが、位相共役鏡も補償光学といえる。まだ研究段階であるが、非線形光学結晶を用いて実現されている。

2009年01月28日

四万十川の戦い

四万十川の戦い(しまんとがわのたたかい)は、「渡川の戦い」ともいい、天正3年(1575年)に発生した長宗我部元親の土佐(高知県)統一を決定づけた戦い。
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戦いに至るまで
戦国時代、土佐西部の幡多地方(現四万十市一帯)に勢力を誇っていた一条氏は、藤原北家五摂家の流れを汲む名門であった。その高貴な家筋によって周囲の豪族を従え、和をもって土佐西部に大きな勢力を誇っていた。しかし長宗我部元親による土佐統一が現実味を帯びてくると、四万十川以東の豪族が次々と元親に下り、一条氏の影響地域は四万十川下流域と以西に押し込められてしまった。そして天正2年(1574年)2月、家臣団のクーデターによって一条氏当主・一条兼定は追放されて、妻の実家である大友氏がある豊後へと逃れた。

幡多地方はほとんど血が流れることなく長宗我部氏の統治するところとなったが、翌天正3年(1575年)、九州から戻った一条兼定が伊予宇和島で挙兵し、旧臣を従えて本拠地の土佐中村に帰郷した。すると一条家への義を感じる土豪がつぎつぎと参陣し、その兵力はたちまち3500に達した。四万十川河口部の西岸、栗本城に本陣を構えた兼定は四万十川に杭を打ち込ませ、地形を利用した迎撃の用意をはじめた。長宗我部軍が必ず来ることを承知していた。

戦いの経過
一条方が四万十川以東の集落や中村城の城下町を襲って挑発すると、長宗我部元親はわずか3日後に7300の軍勢を率いて四万十川東岸に現れた。当時の土佐には半農半兵から一歩進んだ一領具足はあっても常備軍の制度はなかったから、短期間で多勢を揃え進軍してきた様に寡兵の一条方は仰天したと言われている。一領具足制度の有効性を物語るエピソードである。

四万十川を挟んで東西に陣取った両軍は、まず長宗我部方の挑発ではじまった。第一陣が正面から渡河をするように突出すると、一条方は渡り終えたところに弓矢や鉄砲を浴びせんと後退した。数で劣っている以上、攻めるわけにはいかない。

ここですかさず、長宗我部方の第二陣に控えていた福留隼人の騎馬隊が、川の上流に向かって駆けだした。杭のない上流から回り込まれると動揺した一条軍は部隊を分散させ、上流に向かった長宗我部軍を追った。一条方が分かれた隙を逃さず、長宗我部元親は残った全軍に一斉渡河を命じた。

一条方はただでさえ少ない兵力をさらに分散させてしまったため、正面から迫る倍以上の敵軍を迎え撃つだけの余力はなかった。しかも一条軍は寄せ集めで指揮系統は統一されていない。長年土佐の中央部で戦い抜いてきた歴戦の強者どもとまともにやり合えるわけもなく、たちまち総崩れとなり敗走した。一条方は数百名の死者を出したが、長宗我部方に被害らしい被害ははなかった。土佐における天下分け目の合戦であった四万十川の戦いは、わずか半日で終わった。夕日が中村平野を染める前に首実検を行えたほどである。

戦いのあと
この戦いで兼定はかろうじて逃げ延び命長らえたが復讐戦の契機は訪れず、隠遁の末に10年後に40歳で死去した。一方長宗我部元親は土佐一国を完全に統一し、やがて四国制覇に赴くこととなるが天正13年(1585年)、四国平定からわずか数週間後に豊臣秀吉の侵攻を受けて夢は終わった。

岩村城の戦い(いわむらじょうのたたかい)は、元亀3年(1572年)に行なわれた武田信玄軍と織田信長軍の岩村城をめぐる戦い。後に信玄没後の天正3年(1575年)にも武田勝頼軍と織田信長軍との間で行われている。

元亀3年(1572年)の戦い
元亀3年(1572年)10月3日、上洛を目指して西上作戦を開始した武田信玄は、家臣の秋山信友に信濃の軍勢5000人を預けて織田信長の所領・東美濃に侵攻させた。標的は東美濃の要衝・岩村城であり、この城は美濃・信濃・三河の国境付近に位置し、信長の居城・岐阜城からも指呼の先にある戦略的に重要な拠点であった。当時の城主は「遠山七頭」として東美濃で勢威を振るった遠山景任で、信長の叔母の婿であったが、秋山信友の侵攻直前に病死した。

このため、信長は5男の坊丸(織田勝長)を遠山家の養子として送り込んだが、坊丸は3歳の幼児であったため、実際の城主は信長の叔母で景任正室のおつやの方が務めた。城兵は1300人であったが、岩村城は標高721メートル、比高153メートルの山上に築かれた堅城であり、精強武田軍の力攻めでも簡単には落城するような城ではない。

そこで秋山信友は奇策を用いた。信長の叔母・おつやの方と結婚して婿として入ることで岩村城を我が物にしようと考えたのである。おつやの方は信長の叔母だが、信長より年下であり、さらに絶世の美女だったと伝わっている。一方のおつやの方も当時の信長が浅井長政や朝倉義景ら信長包囲網の諸勢力との戦いのため、後詰(援軍)を岩村城に派遣できるような余裕がないことも知っていた。後詰の無い籠城戦は自殺行為であり、11月14日におつやの方は秋山信友に降伏して結婚し、坊丸は人質として甲斐に送られた。

岩村城の陥落に危機感を覚えた信長は、東美濃にある親織田派の豪族に動員令を発し、12月28日に岩村城奪還を目指して反攻させたが、岩村城南方の上村において秋山信友に敗れた。

天正2年(1574年)の戦い
元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄は上洛半ばで病死した。このため、武田家の家督は4男の武田勝頼が継いだが、その勝頼は信長をさらに圧迫するため、天正2年(1574年)1月27日に岩村城に進出して明知城を包囲した。

このとき、信長公記や甲陽軍鑑によると、武田軍6000人に対して織田軍は6万人という後詰としては異例の大軍を率いたとされているが、当時の信長の動員兵力を考えるとこれは誇大数字であると思われる。それに信長は嫡男・織田信忠と共に2月5日に出陣しているが、到着前の2月6日には明知城で一部の家臣の裏切りがあって落城したため、信長は東美濃の高野城に河尻秀隆を、小里城に池田恒興を配置して岐阜に撤退している。

天正3年(1575年)の戦い
天正3年(1575年)5月21日、武田勝頼は長篠において織田信長・徳川家康連合軍に大敗し、山県昌景・馬場信春ら多くの重臣を失った(長篠の戦い)。このため、織田・徳川による武田反攻が始まることとなる。

信長は嫡男・信忠に軍を預けて岩村城に侵攻させた。しかし信友は兵力で圧倒的に不利であったにも関わらず、さすがは武田二十四将の1人に数えられるだけの名将だけあって信忠軍を破った。しかし今度は信長自らが岩村城に侵攻してくると、さすがの信友も防ぎきれず、さらに長篠で大敗を喫した武田勝頼からも後詰が派遣されることが無かったため、信友は自らの命と引替えに城兵を助命することで信長に降伏を申し出た。

しかし、自分の叔母を自らの妻にして岩村城を乗っ取ったことを憎悪していた信長は、信友との約束を破棄して城兵を皆殺しにし、信友とおつやの方は美濃に連行して長良川の河原で逆さ磔の極刑に処したのである。


2009年01月20日

国学や本草学にも源流

日本での民俗学は近世における国学や本草学にも源流が見られるが、本格的な研究が開始されたのは19世紀末である。一つの嚆矢となるのは坪井正五郎が東京人類学会を立ち上げた1886年であり、民族学・民俗学・自然人類学・考古学等を包含する「人類学」の研究として、「土俗」の調査が行われるようになった。一方、新渡戸稲造らと村落研究の勉強会を行っていた農商務省官僚の柳田國男は、1909年、宮崎県椎葉村で聞き書きした狩猟の話を「後狩詞記」(のちのかりのことばのき)として自費出版し、柳田民俗学の第一歩を踏み出す。1913年からは雑誌『郷土研究』を創刊するとともに、当時イギリス留学から帰国した南方熊楠にゴム編『The handbook of folklore(民俗学便覧)』を借り受け、それまで余技の道楽ととらえていた民俗学を学問として体系化する道筋をつけたのである。

ヨーロッパのフォークロアやエスノロジーが、残存の概念によって古代との連続性を持った基層文化を明らかにしようとするのに対して、柳田は人々の生活向上を初期のモチベーションに、民俗学の目的は常民生活の歴史的変遷と同時代の生活文化との関係を考察することにあると考えていた。柳田が民俗学を構築しようとした意図は重層的であり、一つには庶民の生活史を看過する既存の文献史学へのアンチテーゼとして、二つには進化主義的な民族学や「土俗学」との棲み分けとして、三つには地方改良運動に代表される当時の国内文化政策への対抗言説として等、時代状況を反映したさまざまな企図がもくろまれていたとされる。

1935年には柳田を中心に「民間伝承の会」が設立され、機関誌の発刊や民俗学講習会が行われた。またこの時代に柳田は概説書を精力的に執筆しており、学説史の中では学問としての組織や方法が整った1930年代半ばを民俗学の完成時期と見なすのが一般的である。1949年、「民間伝承の会」は日本民俗学会と改称され、この頃から大学にも民俗学の講座が設置されるようになった。それまでの民俗学は柳田邸で行われる木曜会や雑誌上において柳田が学徒を直接指導し、その成果が子弟を通じて全国に広まっていくという意味で、アカデミズムの枠外で展開した一種の運動体だったが、戦後の学制の中では東京教育大学や國學院大學、成城大学などにおいて専門教育が開始されることにより、現在にまで至る教育・研究の制度的枠組みが誕生した。

民俗学研究法
民俗学の調査手法としては、庶民の生活を総体的に把握するという目的を果たすため、農山漁村を中心とした集落に滞在し、聞き取り(聞き書き)調査や紙資料を含む文字資料(金石文、棟札など)の収集、建築物や民具など物質文化の記録、あるいは生業、共同労働、年中行事、人生儀礼などの場への参与観察、そして民俗誌の記述が主体となる。フィールドワークの蓄積からエスノグラフィーを描くことを重視するという意味では文化人類学の手法に近似するが、マリノフスキー以降の近代人類学が研究者個人による数ヶ月?数年の長期滞在調査を基本とするのに対し、民俗学では数日?数ヶ月スパンの中短期調査を繰り返し行うことが多く、また複数研究者による共同調査が実施されることも多い。

初期の民俗学では日本各地から集められた民俗資料を類型化・比較し、日本全体の枠組みの中で民俗事象の歴史的変遷を明らかにするという「重出立証法」が採られた。ジョージ・ゴム(George L. Gomme)の著作を元に柳田国男が提唱したこの方法論は長く民俗学の基礎理論だったが、一方では山口麻太郎や和歌森太郎などからは民俗の地域性を過小評価する方法論だとする批判意見も出された。学説史の中で最も影響力のある批判は福田アジオによるもので、民俗を日本全体での比較ではなく、それが伝承される村落や信仰組織等と切り離さずに分析すべきという「個別分析法」を提唱した。構造機能主義人類学の影響が色濃い福田の方法は、村落社会において民俗を捉え、それが生活の中で相互に連関しながら全体として有している意味を明らかにしようとする。民族全体のスケールの大きい歴史を追ってきたそれ以前の民俗学に比べ、福田の方法論は小規模集落(ムラ)の歴史それ自体をより実証的に描こうとする点に特色があり、同世代の宮田登が提唱する地域民俗学とともにポスト柳田民俗学の方法論として影響した。
インパ バイオ せみよん センニ おいず ガポット ハムスター メシア キオス ラターシュ カム ヤール サニレレ ハブポート ダッグ ビリボ ヒロイン 草もち モーニング タイム ダイス ジントロン ラブラト パイナ 一番星 ローブプ ミング ブラッセリー ネットカー れっど サインペン トラウマ ルンバ ケナフ スローイン マネジ パプリカ タマスダレ クンシ ラッパー ソウル シャー グズベ プレゼン 元慶 インクリ オーバ バイア キャンデ レワィア

もともと民俗学は文化人類学や社会学、宗教学、歴史学など多くの分野と密接に関連しており、ライフヒストリー研究やパフォーマンス理論、社会史、身体論等、研究対象によってはそれらの分野に通じる方法論が用いられることも多々ある。いずれにせよ民俗学の研究方法は分析的(Analytical)というよりは記述的(Descriptive)であり、対象へのインテンシブな調査を元に厚い記述(ギルバート・ライル)を目指す、いわゆる質的研究の一つに位置づけられる。